ハロウィンは、もともとはイギリス・ケルト地方で収穫の時期を終えた10月31日を1年の終わりとして、新年を迎える前の厄払いのような感じで続けられていたお祭りです。悪霊を寄せ付けないよう、怖い恰好をして町内を練り歩いていたんだそうです。スピルバーグの映画「E.T.」の大ヒットによって、日本でもハロウィンのお祭りが広く知られるようになり、いつしか日本の季節行事の一つにも成っているようですね。
「新しい生活様式」は、2020年度の流行語大賞にノミネートされること必至ですが、きっと「喉元過ぎれば熱さ忘れる」にしないよう、あえてそういうネーミングにしたのだろうと思います。
「新しい生活様式」にハグや握手がなくても、元々そうした文化を持たない日本人の私たちに大した支障はありませんが、フェイスシールドやマスクの常用や2mのソーシャルディスタンシングは明らかに以前とは異なる生活様式です。“コロナ禍”にそれは仕方がないとしても、“コロナ禍”を過ぎた段階では、フルフェイスで以前の距離感でコミュニケーションを図りたいと思うのは、私だけではないはずです。
うろ覚えではっきりしませんが、学生時代に読んだ星新一の短編小説か何かで、数百年先の未来に解凍されて目覚めた主人公が、未来人との会話の中で、未来で人口はコンピューターによって完全に管理され、人工受精、人工子宮により人の誕生がコントロールされていることを聴きます。言うなれば人間の人工栽培ですが、それに対し、主人公がかつて生きていた時代(現代)では、男女が抱擁の末生殖に至ることを話し聴かせます。しかし、未来人は生殖行動に強い嫌悪を示し、過去を野蛮な時代と蔑(さげす)みました。
「新しい生活様式」を考えながらこの物語を思い出して、『男女が触れ合う恋愛のない未来には暮らしたくないなぁ…』と思ったことを憶えています。
時代と共に技術革新が進み、私たちはこれまで様々に新しい生活様式を身に付けてきました。トイレは水洗となり、食材も冷凍・冷蔵庫によって長期保存が可能となり、空調もエアコンに。また、殆どの個人が通信端末(PC、スマホ、タブレットなど)を持ち、地球の反対側の人と顔を見合わせながら対話できるようになっています。移動手段もこれまでのエンジン駆動の自家用車から、電気やリニアなどのモーター駆動、自動運転が取って代わろうとしていたり、臓器移植や再生医療、DNA解析やその応用など、新しい技術を手にする度に、私たちに問われてきたこと、それは“人間性”や“倫理観”ではなかったかと思います。今回の「新しい生活様式」が“倫理”に触れることは多分ないと思いますが、こと“人間性”に関しては『どうなのかなぁ…』と思ってしまいます。
“人間性”とは、“人間らしさ”のこと。「何が人間らしさか?」と問われれば、時代や地域によってその価値観は異なりますが、そうした価値に左右されない根源的な部分に、新しい技術利用が悪影響を及ぼすことがないのかについて思いを馳せます。
丁度100年ほど前、人類は今回とよく似たパンデミックを経験しました。いわゆる“スペイン風邪”です。世界で約6億人が感染し、死者は2,000万人~4,000万人とも言われ、統計に上ってない人を含めると、1億人近くが亡くなったとする説もあります。日本においては当時の人口約5,700万人中2,300万人が感染し38万人が亡くなったとされ、終息までに1918(大正7)年8月~1921(大正10)年2月までの3年近くを要しています。
当時の新聞記事に、「三密(密集、密接、密閉)」という言葉こそ出てきませんが、マスケ(マスク)の着用 や手洗い・うがいの推奨、小学校の臨時休校、外出自粛の呼びかけといった現在と殆ど変わらない内容が、紙面に踊ります。中には、多数の記者が罹患して新聞のページ数が減ったことを詫びる謝辞広告までありました。
ところで、この頃に「新しい生活様式」として取り入れられたマスケの常用が、100年間現在まで続いていたかと言えば、花粉症の人以外の大半が使用していなかったことを思うと、今回の「新しい生活様式」も今後100年以上に渡って続く生活習慣たり得ないだろうことが解ります。そうは思いながらも、仮にこうした状況が数年~十年以上続くと仮定した場合に、私たちの“人間性”にどれほどのダメージを受けることになるのだろうと想像するのです。
実は、“コロナ禍”が始まるより前から、私たちは“人間性”へのダメージが懸念されるディス・コミュニケーションの時代を生きていると言われてきました。
二十年以上前、アメリカの大手IT企業が「人と接触しない生活」をネットでライブ配信し、買い物も金融も行政手続きも、ありとあらゆることがネット上で行えるとする実証実験を開始したことが報じられました。当時は、『アメリカだからできること』『そんなの人間の幸福じゃない』と他人事としてニュースを見ていたことを憶えていますが、気付けば、近年自分も同じことをしていたり、我が国に100万人以上いると言われている“引きこもり”と呼ばれる人たちも、家族以外の人間と接触しない生活を送って(れて)います。
また、企業の採用人事では、新入社員にコミュニケーション力を求めながら、社会は“便利さ”の名の下に、次々とコミュニケーション(人との関わり)を削ぎ落とすシステムの構築を推し進めています。なんとも皮肉な矛盾。支払いはバーコードやQRコード、顔認証で「ピッ!」。対面の値切り交渉や問い合わせもなくなり、最安値をネットで比較したり、取扱説明書やQ&Aやカスタマーレビュー(顧客評価)をネットで検索します。“コロナ禍”があろうがなかろうが、既に私たちはディス・コミュニケーションに向かっていたのです。そこに追い打ちを掛けたのが“コロナ禍”。更にディス・コミュニケーションが加速していきます。
確かに、“便利”は“楽(らく)”です。煩わしくなく、ストレスの低減さえ感じます。しかし、それは人間にとって本当に幸福なことなのでしょうか。“便利さ”と引き換えに、一つまた一つと“人間性”を失ってしまっているんじゃないか…。無意識に人と人との関係を“煩わしいもの”と感じ取ってしまう気質・体質に変換されていってはいまいか…。ディス・コミュニケーションの社会システムを生きる中で対人へのストレス耐性が低くなり、他人の言動にキレる沸点が下がってしまってはいないか…
などなど思いを巡らしながら、実は、そんな大袈裟なことではなく、ただ単にコミュニケーションの形が変わってきているだけのこと、なのかもしれません。しかし、古い人間は“口角泡を飛ばす”、飛沫だらけのコミュニケーションの方が“人間らしい”と、ついつい思ってしまうんです。もしかすると、固定観念から解放されなければならないのは、私のような古いタイプの人間の方なのかもしれません。
とはいえ、福祉や医療のような対人援助業務は“人間性”が命です。特に、当園のような“人として育つ喜び”を共有する児童発達支援センターは正に“人間性”で勝負しています。ロボットには替えられない掛け替えのなさをプライド(誇り)に、アイデンティティ(職業的自己同一性)に“人間性”を加えている、そんな気がします。だからでしょうか、便利さを享受する時、マスクで顔を半分隠す時、ソーシャルディスタンシングで人との距離を測ろうとする時、『そこに“愛”はあるんか?』じゃないですが、『それは“人間性”を損なってないんか?』と思ってしまうんでしょう。
通園自粛要請期間中、日中一時支援(延長預かり保育)の時間を感染予防の観点から14:30~17:45に短縮させていただきました。その最中(さなか)、上述の“人間性”をキーワードに日中一時支援の在り方を再検討しました。家庭(保護者)へのサービスも大切な支援のファクターではありながら、一方で子どもの声にならない心の声に耳を澄ますときに、子どもたちの思いを大人の都合で切り捨てたり握りつぶしたりしてはいないか考え直し、限度(終了)を現行の19:00から18:00に改めさせていただきました。
『今までこうしてきたから…』と常識化させていた固定観念を取っ払って考える、“コロナ禍”に気付かされたことの一つでした。この機会に、ご家庭でも家族の形、夫婦の形について、固定観念を取っ払って話し合ってみられると良いかもしれません。