ハロウィンは、もともとはイギリス・ケルト地方で収穫の時期を終えた10月31日を1年の終わりとして、新年を迎える前の厄払いのような感じで続けられていたお祭りです。悪霊を寄せ付けないよう、怖い恰好をして町内を練り歩いていたんだそうです。スピルバーグの映画「E.T.」の大ヒットによって、日本でもハロウィンのお祭りが広く知られるようになり、いつしか日本の季節行事の一つにも成っているようですね。
“人間は感情の生き物である”と言われるように、感情によって行動が左右されます。対してコンピューターには感情がありませんから、周囲の状況に左右されることなく、電気さえ供給されればプログラムを淡々とこなします。人間のように『悲しいから、勉強に身が入らない…』とか『腹が立つから仕事が手に付かない…』、逆に『気分がいいから、いつもよりはかどる!』というようなことがありません。
ところが、精神科の診断に“感情障害(気分障害)”と呼ばれるカテゴリーがあるように、人間はひとたび感情がコントロールを失うと、普段当たり前にできていたことが、できなくなってしまったりします。なんとも人間は、機械に比べ非効率で当てにならない生き物、と言えなくもありません。しかし、だからこそ愛すべき存在でもあるのです。
“感情”は分化しながら発達すると考えられています。
最初、生まれたばかりの赤ん坊には「興奮」という状態があるだけですが、それが間もなく「不快(心地悪さ)」と「快(心地よさ)」に分化し、徐々に複雑化するプロセスを辿ります。この感情の発達に伴って、思考も相互に連関しながら複雑化していき、それによって“感情”は「怒り」「嫌い(嫌悪)」「恐れ(恐怖、不安)」「安心」「得意」「好き(愛慕・愛着)」「愛情」「妬み(嫉妬)」「喜び(歓喜)」「驚き(驚愕)」「悲しみ(悲哀)」「楽しみ(愉快)」「期待」「希望」「優越」「劣等」「絶望」「恋」「性愛」など多くの感情を獲得していくことになります。
このように、子どもの心理発達を考える際には、“知能”や“技能(スキル)”の発達だけでなく、“感情”の発達も併せて考える必要があるのですが、この重要な視点が、案外、児童発達支援(幼児療育)界に不足していると思わされています。
実際、児童心理臨床の世界において、この視点を抜きに子どもを観る(診る、看る)ことはできません。児童発達支援も同様の福祉臨床場面であることを思う時には、現場で働く保育士や児童指導員が『今日は、どうしていつものようにできないんだろう』と感ずる背景に、子どもの感情が強く影響している場面を数多く経験してきている筈なのです。感受性の強い(豊かな)ベテラン保育士は、ある程度子どもの“感情”を読み取る力を身に付けてもいて、経験則でどうにかやってきたこともあり、幼児療育界において“感情”が発達の体系に組み込まれてこなかったのではないかという気もします。しかし、成長すればするほどに複雑化する感情を読み取り難くなるが故に、“感情”のプロ:精神科医師、臨床心理士、公認心理師等が求められるように、精神構造が比較的単純だからという理由で幼児期に“感情”をベースとした臨床観が必要ないかと言えば、そうとも言えません。
その昔、「幼児に神経症はない」とした精神分析の祖、ジークムント・フロイトにメラニー・クライン(対象関係論の創始者)が疑義を唱えたことは(精神医学界では)有名な話ですし、実際、私自身も神経症幼児の心理治療に携わりました。その殆どが被虐待及びハイリスクのケースでしたが、中に自閉症傾向児(ASD、ADD、PDD、AD/HD、アスペルガー症候群等いわゆる発達障礙)が一定割合含まれていました。このタイプの子たちは、“感情”のコントロールを失ってパニックを引き起こしやすく、その誘因として
“①固執性(こだわり)”や
“②新規場面(イレギュラー)の苦手さ”
“③感覚(知覚)過敏”
などの特性が関与していることが解っています。その特性を理解し難い親から被る虐待により、二次障害として症状を悪化させ、負のスパイラル(悪循環)に陥っていたケースに数多く出逢いました。
虐待は子どもの心に深い傷を残す、あってはならない行為です。だからと親が悪いと言ってしまうのは簡単ですが、実際のところ、親に子どもの特性理解が正しく情報提供されてこなかったことこそが、自閉症傾向(発達障礙)児虐待の中心的問題であろうと感じていました。
虐待加害の親カウンセリングをすると解りますが、自己愛の強い親を除き、殆どが子どものために良かれと思って、その思いが行き過ぎて虐待に至ったケースです。もしも早い段階で、子どもの特性に関する正しい理解が得られていたなら、虐待には至らなかっただろうと思われるケースばかりでした。
話を“感情”に戻しましょう。
そもそも、自閉症傾向(発達障礙)児が、何故“固執性”を強化してきたのか。何故“新規場面が苦手”なのか。何故“感覚過敏”を強化してきたのかということです。それらの特性の背後に共通して横たわる感情。それは、漠然とした「恐れ」や「不安」の感情です。
逆説するなら、
❶いくつかのパターンに固執することで、
❷慣れ親しんだ行動様式に沿うことで、
❸イレギュラー(いつもと違う)をいち早く察知するためのセンサーを過敏にすることで、
「不安」や「恐怖」を感じないで済むように自身の心の平静を保守することに努めてきた、ということです。
つまり、精神的ホメオスタシス(恒常性維持機能)の過剰反応とも言うべき、防衛本能としての無意識の究極的努力なのです。子どもがそれらに没入している限りは、一般的・普遍的な発達を促そうとしても、学習(発達課題の獲得)は困難を極めます。だからと『それは、それ』と、切り離して“知能”や“技能(スキル)”にばかり偏った働き掛けをしても、歪(いびつ)な発達を促すことに繋がりかねません。
「発達障礙(がい)」とは、“誰にも発達の途上で現れる特徴(①②③など)が固着化し、長引いて特性化している状態”を言います。そういう意味では、上述した特徴が発達障礙(がい)特有の特異な反応という訳ではありません。誰もが一過的・短期的に経験してきた発達の特徴なのです。で、あるなら、根っこに触れようとしないで、枝葉である「①固執性」、「②パターン的行動(ルーティーン)」、「③感覚過敏」などの症状ばかりに目を奪われ、パニックを起こさせないことを第一義に対症療法的に薬で抑えたり、思考や葛藤を回避させる新たな行動パターンの植え付けにやっきになっても、本当の意味で支援にならないのではないかと考えます。むしろ、根っこの“感情”にこそ働き掛け、固着化し特性化してしまっている発達特徴を和らげ、次のステージに押し上げることこそが“発達支援”なのではないかと思うからです。
つまり、これらの症状を呈する子どもたちが、禁忌(タブー)(勝手にそう思い込んで)としている「不安」や「恐怖」に共感を寄せながら共に向き合い、思考・葛藤を抑え込もうとはせず寄り添うことで、「不安」や「恐怖」を感じても「この人と一緒なら大丈夫」という体験を繰り返し与えること。そうした取り組みによって「不安」や「恐怖」が軽くなる「安心」体験を積ませることが、感情発達の節を越えさせる手立てではないかと考えます。
発達課題には課題ごとに“臨界期”が存在すると言われます。課題によっては臨界期内に獲得できないと、以後いくら訓練・指導しても獲得不能となる期限があるという考えです。「不安」や「恐怖」を、他者と共に乗り越え克服するプロセスを獲得可能な臨界期がいつまでなのか、研究が待たれるところですが、早いに越したことはありません。早ければ早いほど、その後の人生を楽にしてやれることに間違いはないからです。「鉄は熱いうちに打て」と言います。冷めてしまったら硬くなってしまう喩(たと)えで、柔らかいうちに働き掛けることの重要さを教える諺(ことわざ)です。そういう意味では、子ども(幼児期=臨界期全体)の時間はとても貴重なのです。
「不安」や「恐怖」は、それはそれで危険を察知する本能的機能を果たす重要な感情です。それらを感じさせないようにするのではなく、感じた時にはどうすれば乗り越えられ克服できるのか、その術(すべ)を身に付けさせることの方が重要であると考えます。
光の子学園では、コーピング(葛藤処理)に着目し、自閉症傾向(発達障礙)児のパニックに寄り添い、やり場のない「不安」や「恐怖」の感情を収束させるプロセスを共にすることで、子ども自らが心に「安心」を産み出す力(愛着対象の内在化)を育むことを大切にしています。そしてそれは、「ストレス耐性(たいせい)」を育む取り組み(イレギュラーの許容)に繋がってもいるのです。
子どもの感情・情緒の発達が今どの辺(あた)りの段階にあり、何によって感情のコントロールが失われているのか。そこに子どもの特性がどう関わっているのかを読み解き、心を支配している“不安や恐怖”を解消する術(すべ)は何なのかを考え、感情のコントロールを取り戻すこと。そして、子どもが失敗と受け留めてしまっている体験を、成功体験(大丈夫)へと転じることが、私たちに求められる支援であろうと思います。
以上は、光の子学園が「TEACCH(Treatment and Education of Autistic and related Communication-handicapped CHildren)プログラム」を本格導入しなかった大きな理由の一つです。
30年ほど前に我が国の自閉症療育にセンセーションを巻き起こした上記プログラムについては、当園でも導入を考え複数年に渡って何度となく研修に参加し、開発者のエリック・ショプラー教授にも直接インタビューし研究を重ねました。
しかし、自閉症児の特性を応用(活用)したプログラムの考え方(発想)は理解できるものの、プログラムが特性を強化・助長することや“感情の発達”が置き去りになってしまいやすいことから、どうしても導入に踏み切ることができませんでした。子どもの感情発達を犠牲にしてまで技能習得に偏った支援をすることは適当ではないと判断したためです。私たち光の子学園では、目に見えやすい「できる」「できない」(スキル)以上に、人と一緒に笑ったり泣いたり怒ったり喜んだりの喜怒哀楽を共有・共感すること、喜怒哀楽を内面と一致したアサーション(自己表現)として獲得する“心の発達”に重きを置いています。
誤解無きよう付け加えておきますが、私たちはTEACCHプログラムを否定するものではありません。TEACCHプログラムは大変優れたプログラムであると考えます。ただ、当園の幼児期における療育の視点、力点がTEACCHプログラムとは異なっている、そのことを述べているに過ぎません。
後の30年間に、TEACCHプログラムもプログラムのゴールを「脱構造化」にあるとしましたが、当園では心が柔らかい幼児期に感情をしっかり発達させる(=しなやかな心〔自我〕を育む)ことを大切にしたいと考えています。