ハロウィンは、もともとはイギリス・ケルト地方で収穫の時期を終えた10月31日を1年の終わりとして、新年を迎える前の厄払いのような感じで続けられていたお祭りです。悪霊を寄せ付けないよう、怖い恰好をして町内を練り歩いていたんだそうです。スピルバーグの映画「E.T.」の大ヒットによって、日本でもハロウィンのお祭りが広く知られるようになり、いつしか日本の季節行事の一つにも成っているようですね。
以前在職中の1988年89年、河村光陽童謡賞創作曲コンクールで「ねぇ!ママ」「ウンチの唄」と2年連続でグランプリ、特別奨励賞を受賞した翌90年、毎日童謡賞に「あそびがしごと」で応募しました。この楽曲は受賞には至りませんでしたが、どの歌も子ども目線で園での生活を切り取ったものでした。
88年にグランプリを受賞した「ねぇ!ママ」には、西日本新聞の特集記事に-子どもの権利宣言-という大見出しが付けられましたが、権利宣言第2弾のつもりで子どもの主張を代弁したのが「あそびがしごと」でした。コンセプト(創作意図)は『ただ遊んでる訳じゃあ、ないよ!』です。
そもそも「遊び」とは何でしょう。
かつて30年以上前に読んだ「遊びと労働」という書物には『非生産的活動で人間に特有の行為』という風に書かれていましたが、アーティストやアスリート等の非生産的活動もプロ化して実利を伴うようになっていますし、EスポーツやYouTuber等の活動に至っては、どこまでが遊びでどこからが仕事なのかすらよく判りません。そうした世相を反映して、最新のWikipediaでは
『知能を有する動物(ヒトを含む)が、生活的・生存上の実利の有無を問わず、心を満足させることを主たる目的として行うものである。』
と、定義します。
インターネットの出現によってプロのミニマム化が進み、賞金や広告収入等で生業(なりわい)を立てる職業が市民権を得つつあります。今や“遊びが仕事になっちゃう”時代で、“遊び”の対義語であるはずの“労働”に『仕事はかくあるべき』といった昭和の旧臭(ふるくさ)い固定観念は、もはや通用しなくなっている気すらします。
それはさておき、私たちが『遊び』を考える際に真っ先に思いつくKeyWord、それは『楽しさ』ではないかと思います。その活動が楽しければ楽しいほどにのめり込む、そういうものではないでしょうか。まさに「好きこそものの上手なれ」です。
私は絵が好きで、今でも卒園児の似顔絵を描いて贈っていますが、心理学を志す前は美大を目指していました。
そもそも私が絵を好きになったのは幼児期に誉められたことがきっかけでした。保育園の年中の頃、園で飼っていた鶏を画面一杯に頭を左にした立ち姿をクレヨンで描きました。その時、中央に黒で描いた翼の輪郭線が思いの外小さくて、その線を消そうと何度も何度も白いクレヨンを必死に塗り重ねました。しかし、塗れば塗るほど黒いクレヨンが白に混じってグレーになるばかりで、自分では全くの失敗作だと思っていました。『もう、絵を描くのは嫌だ』とさえ思ってもいましたが、その絵を園が県の展覧会に出品し、なんと知事賞を受賞してしまったんです。それだけでなく、保育者を育てる教科書にも掲載され、大人達の評価としては、『翼の陰影のグラデーションが見事。保育の現場ではこういう感性を育てなさい』ということだったようです。勿論、子どもの私にそんなことは解りませんでしたが、ただ『あなたは絵が上手なのよ』ということだけが刷り込まれて、単純な私は乗せられるがままに絵を好きになり、当時流行っていたオバQやらパーマンやらジャングル大帝やらをひたすら描いたことを想い起こします。つまり、もともと才能があった訳ではなく、「好き」をKeyWordに量を積み上げたに過ぎず、小学生の頃にはせがまれてよく漫画のキャラクターを友だちのノートに描いてやったりしていました。そうする、絵で飯を食えるようになれたらと美大を目指しますが、井の中の蛙は大海に船を漕ぎ出してあえなく転覆。挫折を経験し、心理の学びへと方向転換します。絵のプロになる夢は叶わなかったものの、幼児期に好きになった絵でいろいろな人と繋がれることには、掛け替えのない財産をいただいたと思っています。
と、私の話はこれくらいにして、何が言いたいかというと、何かを獲得しようとする時に、『好きになる』『楽しむ』ことが最強のエネルギー(活力)になるということです。皆さんも三度の飯を忘れるほどに何かにのめり込んだり打ち込んだりした経験を、一つ二つと言わずお持ちなのではないでしょうか。
法人ホームページの学園紹介ページにも書かせてもらっていますが、光の子学園では人を大好きになることを大前提に、獲得すべき発達課題を「させられる」課題としてではなく、子ども自らが「やりたい」「好き」「楽しい」課題とできるよう意欲を育て、遊びの中で、遊びを通して学び獲得することを目指しています。そのためには、まず保育者・療育者自身がその活動を全力で楽しむことが求められます。何故なら、つまらなさそうにしていたんでは、子どもは『楽しそう』とも『やりたい』『やってみよう』とも思ってはくれないからです。
例年であれば6月の保護者参加週間や9月の運動会で、そうした子どもたちのワクワクやキラキラした瞳を見て体感していただけていたんですが、今年はコロナ禍のためにそれが叶わず、非常に残念に思っています。こうして文面でしかお伝えできませんが、子どもたちはそれぞれに毎日の園での生活を楽しみながら、めきめきと音を立てて成長を遂げてくれています。