ハロウィンは、もともとはイギリス・ケルト地方で収穫の時期を終えた10月31日を1年の終わりとして、新年を迎える前の厄払いのような感じで続けられていたお祭りです。悪霊を寄せ付けないよう、怖い恰好をして町内を練り歩いていたんだそうです。スピルバーグの映画「E.T.」の大ヒットによって、日本でもハロウィンのお祭りが広く知られるようになり、いつしか日本の季節行事の一つにも成っているようですね。
11月は国の定めた児童虐待防止推進月間(オレンジリボン・キャンペーン)です。
「189(いちはやく) 知らせて守る こどもの未来」
(「児童虐待防止推進月間」標語 令和2年度最優秀作品)
10年ほど前に、被虐待児童心理治療の専門家という立場(当時、児童心理治療施設・副施設長)で、「鳥取いのちの電話」季刊誌巻頭文の執筆を依頼されたことがありました。今回は、その時に書いた寄稿文を掲載します。
親子の絆とは何だろう。
母子は確かに臍(へそ)の緒(を)で物理的に繋がっていた時期があって、それを切り離した後も、目に見えない何かで繋がり続けているかのように「絆」と表現したのが、この言葉の始まりのような気がする。
しかし「親子の絆」は本当に存在するのだろうか。在るとすれば、いったいそれはどこに在るのだろう。もしかすると親の側で一方的に抱いている願望、あるいは幻想に過ぎないのではないだろうか。
この、親の側で抱く『絆で結ばれているはず』という幻想は、行き過ぎると、時に虐待を引き起こす。
「絆で結ばれているから大丈夫」と、我が子を放置する。
「絆で結ばれているはずなのに」と、思い通りにならない子に鉄拳を振り下ろす。
「絆で結ばれているから言いなりに」と、子どもを性処理の玩具にする。
「絆で結ばれていたはずなのに」と、心をズタズタにする言葉を浴びせ存在(生まれてきたこと)さえも否定する。
そんな絆なら、最初から無い方がよかった。
「世代間伝達(伝承)」という言葉がある。
虐待をする親は自身も虐待を受けて育った場合が多く、そうした子育てのありようが世代を越えて伝達される、という意味で使われることの多い言葉だ。
虐待による被害を受けた子どもたちを保護し、その傷を癒そうと励む支援関係者はこれを用いて「虐待の世代間伝達を断ち切らねばならない」と、声を揃えて言う。
確かにそれは間違いではない。しかし、私は思う。私たち支援者が担うべきは、
負の世代間伝達を断ち切るばかりでなく、正の世代間伝達を与え直すことであると。
虐待環境に育った子どもにとって、虐待は“普通”のこと。勿論、私たちには“異常”だ。ところが、虐待を受けてきた子どもには、私たちに“普通”の日常が“異常”に感じられてしまうという逆転が生じている場合がある。
『大人は信用できない』
それを“普通”のこととして染み込まされてきた子どもは、
『どうせ先生たちも自分の親と同じように、怒ったら暴力でねじ伏せるんだろう』
『どうせ先生たちも自分になんか嫌気が差して見捨てるんだろう』
『どんなにいい人ぶってても、大人なんてみんな同じだ。化けの皮をはいでやる』
と、支援者を挑発し虐待の再現化(対象の大人を怒らせ、暴力を振るわせようと)を試みてくる。ただし、心のどかで
『でも、(目の前の)この人だけは、そうであってほしくはない…』
と、相矛盾した一抹の期待を寄せつつ…。
もしもこの時、支援者が子どもの挑発に乗って、その子の親と同じに力で押さえ込んでしまったなら、投げ捨ててしまったなら、
『やっぱり、大人なんてみんな同じだ…』
という思いを頑なにし、子どもの中の異常な“普通”は決して書き替わることがないだろう。
力や支配によらない、愛着による言葉を越えた繋がりを根気強く与え続けること、それが子どもの中に誤って書き込まれた“情緒”を正しいものへと書き替えることであり、正の世代間伝達を育むことに繋がる。
この子たちもいつの日か親になる日が来る。だからこそ、私たちの支援は未来に繋がる支援でなければならない。
今回、「親子の絆」について原稿執筆の依頼を受けたことを、十八になったばかりの息子に話し、「親子の絆って何だと思う?」と問うてみた。すると息子はしばらく考えて「程良い放置」と答えた。私は、「そりゃぁ(原稿には)使えないなぁ…」と笑いながら返したが、すぐさま息子は「さっき言った言葉の前に、『信頼のある』が付くんだよぉ」と畳み掛けた。
『信頼のある、程良い放置…』
なるほど、親子の絆ってそういうものかもしれない。正に『木の上に立って見る』“親”という漢字の造りを模したスタンスを、子の側でも望んでいるということなのだろう。また、息子の言った「程良い放置」から、『親の背中を見て育つ』という諺(ことわざ)も連想していた。この諺(ことわざ)が私たちに教えようとしているのは、親子が“信頼のある関係で結ばれている”前提が不可欠で、『背中だけ見せていればいいってことではない』ということなのかもしれない。
親子の絆、それはどうやら親の側にではなく、
子の側に在るもののようだ。