ハロウィンは、もともとはイギリス・ケルト地方で収穫の時期を終えた10月31日を1年の終わりとして、新年を迎える前の厄払いのような感じで続けられていたお祭りです。悪霊を寄せ付けないよう、怖い恰好をして町内を練り歩いていたんだそうです。スピルバーグの映画「E.T.」の大ヒットによって、日本でもハロウィンのお祭りが広く知られるようになり、いつしか日本の季節行事の一つにも成っているようですね。
今から四半世紀以上前、児童心理治療施設に主任として勤め始めて間もなく、児童相談所から高校2年生女児の入所打診がありました。
この女の子は、県外の山間いの町で、農業を営む父と母、姉と兄の5人家族の末っ子として暮らしていました。女の子が物心つくより前から、父は冬の間遠く離れた酒蔵に杜氏として出稼ぎに赴き、半年近く家を空ける生活を送っていました。父が留守となる半年の間に母は浮気を重ね、女の子が中学1年生の冬のある日、荷物をまとめ家を出て行きます。女の子は、浮気相手の男性の車の後部座席に乗り込んだ母親にすがり「行かないで」と懇願しますが、走り出す車から蹴落とされてしまいました。
それから後は、近隣に暮らす叔父夫婦の支援を受けながら生活を続けていました。しかし、春になり高校を卒業した姉が県外へ。一年後には兄も県外へと出て行ってしまいました。女の子は地元の高校に進学。父が出稼ぎに赴く冬に、とうとう独りぼっちになりました。寂しさを紛らすため、友だちを家に呼ぶようになり、やがて女の子の家は溜まり場になっていきました。高校を休みがちになり、気の置けない不良仲間と飲酒、喫煙などの非行を繰り返すようになります。
友だちが何日か寝泊まりすることはあっても、何日かして友だちが帰ってしまうと、結局独りぼっちです。友だちに帰って欲しくなくて、繋ぎ止めておきたくて、気に入られようと女の子は次第に自分を見失っていきました。そんなある日、友だちとどんちゃん騒ぎをして女の子が眠り込んだ後、友だちが三々五々家路につきました。数時間後、目覚めた女の子は寝ぼけ眼(まなこ)をこすりながら煙草を咥え、ライターに…。その瞬間、ものすごい轟音(ごうおん)と共に女の子は炎に包まれました。ガス爆発です。
女の子の長い髪の毛は総て剥け落ち、顔や手や露出していた皮膚は焼けただれて垂れ下がり、原爆直後さながらの様相で命辛々外に出ました。そして、近隣に住む叔母に助けを求めたのです。病院に救急搬送されましたが、全身火傷です。生死の堺をさまよい転院を繰り返しながら、約1年に及ぶ入院生活を余儀なくされました。それからようやく松葉杖で歩けるようになったところで、児童心理治療施設への入所が検討され、入所打診に至ったという訳です。
児童相談所の打診に、施設職員の意見は二分します。
『事故だと聴かされてはいるが、もしも自殺企図だったとしたら、再びガスの元栓をひねって自殺を図るのではないか…。そうなれば、他の入所児までも危険に曝(さら)すことになる…』
と、懸念が述べられました。しかし、児童心理治療施設で受け入れなかったなら、心身に深い傷を負う女の子に、いったいどこに行き場(生き場)があるというのでしょう。体の傷は、心の傷によって産み出されたものです。ならば、心の傷を癒やせるのは、児童心理治療施設をおいて他に無いのではないか。職員全員で苦悩し葛藤した末、重い緊張感の中で受け入れを決断しました。
入所後は、予想していた通り、何度となく危機(不適応)が訪れ、精神科への数度の保護入院の後、緊急避難的に2ヶ月近く私の家で預かったこともありました。また、退所後にも何度か危機があり、その度に、我が家に数日間迎え入れました。結果的に妻や子どもたちを巻き込むことになってしまいましたが、お互いに良い経験を得させてもらったと思っています。
その中で、強く印象に残っている出来事があります。それは、女の子を我が家に迎えた最初の日の夕食時のこと。食前の祈りの後、皆で「いただきまーす」を発声した直後に、女の子が汁椀に口を付けたまま大粒の涙を流し、声を挙げて泣き始めたことでした。
普段、女の子は顔の火傷痕を大きなマスクで覆い隠していました。そのため、素顔を人前に曝(さら)せない女の子に配慮して、施設では自室で食事を摂らせていました。そうしたこともあり、“そろって食事をする”ということが、女の子には人生初の体験だったのです。
「家族みんなで一緒に食べると、お味噌汁がこんなに美味しいなんて…初めて知った…」
と、涙でグシャグシャになりながら泣きじゃくり、私も妻ももらい泣きしたことを想い起こします。
女の子は退所後数年で結婚。夫との間に一人娘を設けました。その娘も、今では立派な医療従事者となってコロナの最前線で働いています。また、自身も働きながら資格を取って介護福祉分野で働き、数年前にはマイホームも買いました。
体の傷は、十数回に渡る美容形成手術によって随分と目立たなくなりましたが、心の傷は完全に癒えることはありません。40才を過ぎた今でも摂食障害に苦しんで、時折「しんどい…」とか、「入院した」なんてLINEを送ってきます。それでも本当に、よくぞここまで生き抜いてくれたと、私の臨床の中では誇るべきクライエント…というより、もう娘みたいな妹みたいなものです。彼女に出会い、共に響き合えたことを心の底から感謝しています。