ハロウィンは、もともとはイギリス・ケルト地方で収穫の時期を終えた10月31日を1年の終わりとして、新年を迎える前の厄払いのような感じで続けられていたお祭りです。悪霊を寄せ付けないよう、怖い恰好をして町内を練り歩いていたんだそうです。スピルバーグの映画「E.T.」の大ヒットによって、日本でもハロウィンのお祭りが広く知られるようになり、いつしか日本の季節行事の一つにも成っているようですね。
今から6年前の2016年7月26日未明、「相模原障害者施設殺傷事件」が発生しました。目を背けたくなるような傷ましい事件で、正直最も触れたくない事件の一つですが、今回は、4年ほど前にこの事件を通して“キリスト教的障礙観”について纏(まと)めた文章を紹介します。
光の子学園は、今から49年前にキリスト教会と教会附属幼稚園を母体として誕生した施設でキリスト教精神に則(のっと)って運営が継続されていますが、キリスト教では“障礙”をどのように捉え、どう意味付けているのでしょうか。そのあたりをお話しできればと思います。
犯人、植松 聖(うえまつさとし)被告(当時26才)は、「何も生産できない障害者は生きている価値がない」「意思疎通がとれない人間は安楽死させるべきだ」と、障礙者を“社会に不幸をもたらす存在”と結論付け、自身を英雄化し津久井やまゆり園の入所者19人を殺害。職員を含む26人に重軽傷を負わせました。植松被告には自己愛性人格障害の診断もありますが、彼自身の障礙が殺戮(さつりく)の原因とは言えず、やはり彼が殺戮を“正義”と考えるに至った価値観や、こうした思想を生み出すに至らしめた社会背景についても考える必要があるように思います。
「働かざる者食うべからず」という諺(ことわざ)があります。植松被告言うところの生産性の有無に関連する価値観の一つです。実は、この出典がキリスト教の聖典・聖書だということをご存じでしょうか。この言葉は、聖書(新約)テサロニケの信徒への手紙3章10節に登場し、そこには、
10 実際、あなたがたのもとにいたとき、わたしたちは、「働きたくない者は、食べてはならない」と命じていました。
(※使徒パウロが、テサロニケ教会で共同生活を営む人々に宛てて書いた手紙の一節)
と、記(しる)されています。 この言葉は、キリスト教的労働観として広く世界に知れ渡り、時のソビエト連邦憲法第12条に
「ソビエト社会主義共和国連邦においては、労働は、『働かざる者は食うべからず』の原則によって、労働能力のある全ての市民の義務であり、名誉である」
と引用されたほどです。これにより、「“権利”は“義務”を果たす者にだけ享受が許される」かのような誤解が蔓延することになるのですが、気を付けていただきたいのは、聖書には「働きたくない者」と書かれているのであって、「働けない者」とは書かれていないということです。その違いを明確にするために、パウロは続く11節以下に、
11 ところが、聞くところによると、あなた方の中には怠慢な生活をし、少しも働かず、余計なことをしている者がいるということです。
12 そのような者たちに、私たちは主イエス・キリストに結ばれた者として命じ、勧めます。自分で得たパンを食べるように、落ち着いて仕事をしなさい。
と、付け加えました。
ここに記されているのは、あくまで“働けるのに働こうとしないで怠惰に過ごしている者”のことを言っているのであって、“病人や怪我人、障礙者など働けない者まで食べるに値しない”とは言っていません。
ところが、“働かざる者喰うべからず”には“働けない者”までもが包含され、“義務を果たさない者に権利はない”といったニュアンスが一般化し、それを植松被告が自身の価値基準に取り込んだとしても不思議ではありません。
しかし、民主主義社会にあって“権利”は“義務”に優先し、“義務を果たすから権利が生じる”のでないことは法律家の間では常識です。初めに権利ありきで、義務はその次なのです。
それはさておき、植松被告が言うように、本当に障礙者は“価値無き者”なのでしょうか。そうであるとするなら、何故、20世紀初頭に“優れた魂に与えられた負荷を有する、神から特別に愛されている人”という意味合いの込められた“Handicapper”という呼び名が誕生するに至ったのでしょう?。それは単に障礙者を励ますための称号ではなく、こうした人々を世に送り出す神の意図を感じ得た者たちに、そう呼ぶ必然が生じたためではなかったかと想像します。
(https://www.hikarinoko-kai.or.jp/2021/05/10/1675/★2021保護者学習会資料参照)
お恥ずかしい話ですが、若い頃に知的障害幼児通園施設(現・児童発達支援センター)「光の子学園」の子どもたちと出会うまで、私もこうした子どもたちを『可哀想な子』と見ていました。『この子らに、自分は何をしてやれるんだろう』と、無意識に上から見下(みお)ろしていたように思うんですが、実際に子どもらと出会って時間を共にする中で、次第にそんな自分を恥ずかしく思うようになっていきました。彼らをそんな風にしか見られていなかった自分こそが、“可哀想”な存在に思えてきたのです。
現実に、出会った子どもたちの中に『自分を可哀想だと思っている』子どもは一人もいませんでした。そこには、障礙の有る無しに関係なく、ただ屈託のない子どもの姿があるだけです。
当時の園長は、園の子らを「発達に遅れのある普通の子」と呼んでいましたが、全くその通りだなと感じました。それぞれに発達のスピードが遅かったり速かったりの違いはあれ、人間の成長の道筋に何ら違いは無かったからです。むしろ、子どもらの純真な在り様(よう)に、真っ白なこどもを自分の汚(けが)れで汚(よご)してしまうんじゃないかと、“恐れにも似た恥ずかしさ”すら感じていたように思います。
“恥ずかしい”とは、どういう感情でしょう。私たちはどういったときに“恥ずかしい”と感じるのでしょう。辞書には「①自分の欠点・過失などを自覚して体裁悪く感じるさま」「②相手が優れていて気後(きおく)れするさま」と、あります。私はきっとこの両方を、園の子どもたちに感じていたんだと思います。
この世の常識とかスキル(技能)とか理屈とかを超越した霊的な「正しさ」とでも言ったらよいでしょうか。その姿の前に自分の卑しさ・醜さを感じ、永くクリスチャンをしている自分より、余程子どもたちの方が神に近い存在だと感じました。イエス・キリストが「神の国はこのような者たちのものである」と語られた“このような者”が、目の前に体現されていると、そう感じたのです。
この経験は、若い私の人生観を変える大きな衝撃でした。日本社会では多くの人に価値が無いと思われている障礙幼児に、神の目には絶大な価値が存在していることを見出したからです。
創造主である神が与える価値とは、「大きい」とか「強い」とか「速い」とか「何かが上手にできる」とかそういうことではなく、神の意思によって「命与えられて存在している」という絶対的な価値であるということです。
このことを♪みんな神様に愛されているんだ♪という子ども向けの讃美歌に込め、2000年にゴスペルバンドDavid’s Harpのオリジナル曲として発表しました。
そのコンセプト(創作意図)は、人の世で評価の対象とされている「資質や才能(賜物)は、それぞれの召命を果たすためのツール(道具)であり、価値とは無関係である」というものです。
※召命=神によって与えられる人生における使命と存在意味
私の母は、15年ほど前からアルツハイマー型認知症を患っていて、かつてできていたことが日に日にできなくなってきています。本人はそのことをとても辛く悔しく感じていましたが、悲しむ必要はありません。何故なら、神の目には「出来る」「出来ない」でその人の価値は変わらないからです。
このように、神は時に「出来ない(不自由)」という「賜物」さえ与えられることがあります。しかしそれは「出来ない」者に与えられる「負荷」なのではなく、「出来る」賜物をいただいている周囲に与えられる「タスク(課題)」であり、「クエスト(探求)」なのだろうと思うのです。その神からの「クエスト」に気付けないこと、「出来る」ことがあってもしようとしない状態を、私たちは“可哀想”と言うべきなのでしょう。
私たち健常者と呼ばれる者に与えられる「クエスト」の一つの答えが、聖書(新約)コリントの信徒への手紙Ⅰ・12章14~26節に、喩(たと)えを通して著(あらわ)されています。
このテキストには、神の理想とする教会=社会を「人の体」に喩えて、以下の様に記(しる)されます。
<一つの体、多くの部分>
-略-
14 体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。
15 足が、「わたしは手ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。
16 耳が、「わたしは目ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。
17 もし体全体が目だったとしたら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。
18 そこで神は、ご自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。
19 すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。
20 だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。
21 目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。
22 それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。
23 わたしたちは、体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと恰好良くしようとし、見苦しい部分をもっと見栄(みば)え良くしようとします。
24 見栄えの良い部分には、そうする必要はありません。神は、見劣りする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。
25 それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。
26 一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。
これが、私たちに与えられる「答え」です。
特に注目したいのは、22~24節
22 それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。
23 わたしたちは、体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと恰好良くしようとし、見苦しい部分をもっと見栄(みば)え良くしようとします。
24 見栄えの良い部分には、そうする必要はありません。神は、見劣りする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。
と、あるように、私たちに内臓が失われたら生きていけなくなります。それぞれの臓器は、外から見える部分に比べて普段見慣れないが故に、「恰好が悪い」「見劣りする」と私たちは勝手に決めつけますが、それは単に固定観念に過ぎません。何故なら、神の目にはその一つ一つがこれ以上にないほど機能的で美しい形に他ならないからです。そして、それらは大切な部分であればこそ、皮膚や脂肪や筋肉で覆って体の奥深くに護(まも)っているのです。
この喩(たと)えが示すように、Handicapper(ハンディキヤツパー)と呼ばれる人たちや社会的弱者の立場に置かれている人たちを覆い、包み込んで共に生きること、それが私たちに与えられるクエストであり召命です。しかもそれは、“そうしなければならない”ものでも“そうすべき”ものでもなく、“そうする”ことが全体に「分裂が起こらない」秘訣であると聖書は語ります。
植松被告が言ったようにHandicapper(ハンディキヤツパー)は「何も生産していない」訳ではありません。どんなに最重度の寝たきりのHandicapper(ハンディキヤツパー)であっても、彼らは私たちに向けてクエストの種を生産し続けています。残念ながら植松被告にはその種を見出す力も、活用しうる力も備わってはいませんでした。そしてそれは、植松被告に限ったことではありません。
聖書が語るように、Handicapper(ハンディキヤツパー)を大切に取り扱っていない国や地域では、現実に分裂が生じ紛争が起こっています。Handicapperなどの所謂(いわゆる)マイノリティが自分たちの社会に必要な存在であることに気付けず、なおざりにして軍事費ばかりを投じるような国には、真の意味で平和は訪れないように思うからです。社会はHandicapper(ハンディキヤツパー)を無くすことを目標としてはなりません。そうしようとするなら、今とは形を変えたHandicapper(ハンディキヤツパー)(社会に絶望する難民、絶望から鬱病になり自殺する者たち)が増産されるだけな気がします。
想像してみてください。Handicapper(ハンディキヤツパー)の存在しない世界を。それは、私たちに本当に望ましい世界なのでしょうか。彼らの存在の故に、思いやりとか優しさを社会システムに組み込むことを、私たちは少しずつではありながら実現してきたように思いますが、その一つ、ユニバーサルデザインも“年齢や能力、状況などにかかわらず、多くの人が利用可能となるデザインや設計”を基本コンセプトとして、障礙の有る無しに関わりなく多くの人がその恩恵に与(あずか)っています。
また、ドラえもんの“もしもボックス”で、仮にHandicapper(ハンディキヤツパー)が存在しない世界を設定したとしたら。私たちは自分が少しでも欠け(私は既にいっぱい欠けだらけですが…)、完全でなくなった途端に存在を許されなくなって、優生思想を掲げる市民警察を恐れながら生活しなければならなくなってしまうのかもしれません。そのような世界を、皆さんは幸福だとは思わないはずです。
私たちは、明治以前に行われていた間引きや、姥捨て山、座敷牢の時代に今の世を戻してはなりません。今はまだ神の理想には遠く及ばないのかもしれませんが、私たちの社会はようやくここまで成長してきたところなのです。
Handicapの有る無しに拘(かか)わらず、互いが互いを配慮し合い“互いを必要とし合う関係”を結ぶために、神が彼らを「いっそう引き立たせて、体(人間社会)を組み立てられ」たと聖書は教えます。そういう意味では、私たちの日本はまだまだHandicapper(ハンディキヤツパー)や社会的弱者を自分たちの社会造りに活かし切れていないと言えるのでしょう。
そして、
26 一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。
これが、私たちが目指すべき社会の姿なのだろうと思います。
【付録・ノーマライゼーション】
①■1950年代初頭、デンマークの知的障礙者施設の中で、入所者が非人間的な扱いを受けていることを知った親たちによる、改善提唱運動に始まり、行政官N・E・バンク-ミケルセンが主導して、ノーマライゼーション法「どのような障礙があろうと一般の市民と同等の生活と権利が保障されなければならない」が1959年に成立。
②■その後、スウェーデン知的障礙児者連盟のベンクト・ニィリエが、ノーマライゼーションの理念を整理し、「社会の主流となっている状態にできるだけ近い日常生活を、知的障礙者が得られるようにすること」として以下の8つの原理を定義。これをアメリカに広めたことで、アメリカから世界中に広まった。
・1日のノーマルなリズム
・1週間のノーマルなリズム
・1年間のノーマルなリズム
・ライフサイクルでのノーマルな発達的経験
・ノーマルな個人の尊厳と自己決定権
・その文化におけるノーマルな両性の形態すなわちセクシャリティと結婚の保障
・その社会におけるノーマルな経済的水準とそれを得る権利
・その地域におけるノーマルな環境水準
※我が国には、アメリカを通じて②が先行して入ってきたために、本来の意図が一部読み替えられ、障礙ある人をノーマル(標準=健常)に近づけようとする療育(発達支援)が盛んになった。しかし、1984年に癌患者に対する医療のQOL(Quality Of Life=生活の質)が謳(うた)われるようになり、当人ではなく周囲(社会)が変わる本来の方向へ修正が図られた。