ハロウィンは、もともとはイギリス・ケルト地方で収穫の時期を終えた10月31日を1年の終わりとして、新年を迎える前の厄払いのような感じで続けられていたお祭りです。悪霊を寄せ付けないよう、怖い恰好をして町内を練り歩いていたんだそうです。スピルバーグの映画「E.T.」の大ヒットによって、日本でもハロウィンのお祭りが広く知られるようになり、いつしか日本の季節行事の一つにも成っているようですね。
7月のある週末の朝のこと。ベテラン保育士が、「朝、出勤直前に家の前の路上でぐったりしている仔猫(推定生後1ヶ月)を見つけて放っておけなくて、一緒に連れて来てしまいました。今から動物病院に連れて行ってやりたいんですけど…」と相談に来ました。通院を許可し受診してもらいましたが、頭や脇腹、背中と左後ろ足に引っ掻き傷や擦過傷が複数あり、鳶(とび)や烏(からす)などの野鳥に襲われて上空から落とされたものかもしれないと、念のためレントゲンを撮ってもらいました。幸いなことに骨折は確認されませんでしたが、陽の当たる路上で長時間うずくまっていたために熱中症を併発しており、傷の手当てをした上で点滴が施されました。
園に連れ帰って園舎裏の涼しい土間に置き、調理主査が時折様子を見てくれていましたが、夕方までぐったり横になったままでした。触れると目を開けはするものの、首はだら~んとして自力で頭を擡(もた)げることも立つことも伏せることすらできません。仔猫を保護したベテラン保育士は責任を感じ自宅に連れ帰ろうか思案していました。しかし、家には子どもが4人。そのうち末っ子は2才になったばかりの幼児です。とても仔猫を看病する余裕などありません。また、園の職員で動物の飼育経験を有する者は調理主査と園長だけで、看病ともなると未経験では務まりませんから、成り行きで私が連れ帰ることになりました。
実はこの前夜、TNRボランティア「いのちをつなぐ会」から、公園ネコが交通事故に遭ったとの報を受けて、メンバーと一緒に野良猫を夜間救急動物病院に搬送し処置してもらうということがありました。股関節剥離骨折の大怪我で、処置後猫はメンバーが引き取りましたが、私が家に帰り着いたのは午前1時を廻っていました。
寝不足気味で保護者学習会の講師を務め、その夜は早く寝ようと目論んでいたんですが、瀕死の仔猫を連れて帰るとなるとそうもいきません。帰り際に「いのちをつなぐ会」メンバーの家に立ち寄り、乳児用粉ミルクとシリンジ(針の付いてない注射器)を受け取り、自宅での看病を開始しました。
この日保護仔猫は、午前中に点滴を受けたきり何も口にしていませんでしたから、ミルクが飲めるか心配しましたが、シリンジで与えるとチュパチュパ飲むことができました。3~4時間置きにミルクを与え、明け方籠(かご)の中で尿と便をしていました。匂いに目覚めて温水シャワーで下半身を暖めながら洗い、タオルに包み冷やさないように乾かしました。その後ミルクを与えたんですが、熱が高いと感じて最寄りの動物病院を受診。受診時の体温は42℃を超えており、2度目の点滴が処方されました。この時点でもまだ首が据わっておらずダラ~ンとしていて、ドクターも「あらあら」と言いながら脊椎損傷の可能性を疑っていましたが、私が時折頭を擡(もた)げる仕草のあることを伝えると「それなら熱中症の後遺症でしょうねぇ」と言われ、ホッと胸を撫で下ろしました。何故なら私も脊椎損傷を疑っていたからです。ですからDr.の”熱中症の後遺症”という言葉に快復の希望を抱くことができました。ただし、生後1ヶ月で熱中症を患った仔猫の生存率は五部五部。「半分は死にますから」と、覚悟をしておくよう釘を刺されました。
それから調理用の温度計でこまめに体温を測るようにし、38℃台まで落ちた辺りから幾らか元気が出て、フラフラしながらも頭を擡げようとすることが頻回になりました。更にチュールを口にできるようになり、このまま快復してくれればと願っていましたが、3日目の朝再び39℃台後半になり、もう一日看病を延長するために年休を取って在宅ワークをしながら看ることにしました。そうする午後には再び38℃台に下がり、フラフラしながらでも立ち上がろうとするようになって、ようやく峠を越えたなと感じられました。
門司(もじ)で保護されたので門ちゃんミシェル(♀)と名付け、翌日から仔猫を伴っての出勤が始まりました。
元気になった姿を職員にも見てもらい、誰か里親にならないかと呼び掛けましたが名乗りを上げる者はありません。仕方なくその日も私が連れ帰り、次の日も同じように仔猫を伴って出勤しました。
出勤二日目、門ちゃんは園長デスクの横でカプセルに入って一日を過ごしました。というのも少しずつ動けるようになって、籠(かご)だと目を離した隙に這いずって脱走してしまいそうだったからです。まだ完全には首が据わっていないので転倒による受傷も心配され、カプセルの中で過ごしてもらうことにしたんです。
こうした状況を、鳥取で母の介護をしている妻が案じ、保護から5日目の夜に北九州市に戻り、翌朝新幹線で門ちゃんを鳥取へと連れて行きました。
門ちゃんのいない生活は仕事面では大変助かりましたが、精神面ではロス感が半端ありませんでした。きっと、『死なせてたまるか!!』と看病していたせいなんでしょう。情が移ってしまっていたんですね。
鳥取の家には門ちゃんの他に猫3匹と犬2匹が暮らしています。ですから妻も娘も姉も動物の扱いは手慣れたもので、門ちゃんは家族の愛情に包まれてすくすく育ち、今では跳んだり跳ねたり走ったり、とても生死の境を彷徨ったとは思えない元気な仔猫(推定生後2ヶ月半)になりました。
ところで、時折ネットやテレビで動物虐待のニュースが報じられます。私の関わっている公営公園ではボランティアメンバーと猫図鑑とマップを共有し、日々約100匹の動静を確認しているんですが、各地での報道と同様に劇薬で火傷を負わされたり、足を持って振り回し壁や地面に叩き付けられたであろう怪我を負わされたり、公園内の車道ではねられて死亡したり、日々様々な情報が目に耳に飛び込んできます。そういう意味では「いのちをつなぐ会」の活動は決して“猫っ可愛がり”だけの活動ではなく、命を守る闘いでもあります。皆んなで小さな命を大切に守りたい一心で活動しているんですが、現実は厳しいと言わざるを得ません。
そんなことを考えながら、ふと、オリジナルゴスペルバンドDavid’s Harpの「ちいさな命」(2010)の歌詞を思い浮かべていました。この歌は”子どもの虐待死”と”若者の自死”をテーマにした歌ですが、『人間の周辺に生きる小動物にも当てはまってしまうんだなぁ…』と、悲しい一致に胸が熱くなりました。
全ての命が神様に造られた命です。無駄な命、不要な命など一つとしてありません。そして同事に、命に大きいも小さいもありません。全てが「尊い命」です。にも拘わらず、タイトルを敢えて「ちいさな命」とした理由は、人々によって”小さくされている命”のある現実を訴えたかったからでした。
私たち人間が、知らず知らずのうちに小さくしてしまっている命、追い込んでしまっている命のあることを、私たちは自分事として捉える必要があるように思います。
自分で自分の命を小さくしてしまわないためにも。