ハロウィンは、もともとはイギリス・ケルト地方で収穫の時期を終えた10月31日を1年の終わりとして、新年を迎える前の厄払いのような感じで続けられていたお祭りです。悪霊を寄せ付けないよう、怖い恰好をして町内を練り歩いていたんだそうです。スピルバーグの映画「E.T.」の大ヒットによって、日本でもハロウィンのお祭りが広く知られるようになり、いつしか日本の季節行事の一つにも成っているようですね。
クリスマスは、神の御子(みこ)キリスト・イエスの聖降誕をお祝いする日です。
救世主の降誕については旧約聖書に繰り返し預言されていますが、今から2023年前(※)に、それらの預言が成就されました。
クリスマス(神の御子=救世主の聖降誕)には、どういった目的と計画があったのでしょう。今回は、そのことについてお話しします。
アダムとイヴの物語をご存じの方もいらっしゃるとは思いますが、アダムとイヴは神様が天地創造の直後に、ご自身に象(かたど)って最初に創られた人類です。
二人は「エデンの園(その)」に暮らしていましたが、悪魔の化身である蛇が園に侵入し、イヴが独りでいる時を見計らって、神様に禁じられていた「知識の木の実」を取って食べるよう、そそのかします。知識の木の実を食べたイヴは心の目が開き、自身が裸であることと神様の掟(おきて)に背(そむ)いて罪を犯(おか)したことを知ります。そして、イヴはアダムをそそのかして、アダムにも知識の木の実を食べさせました。
その日、神様が園を訪れた際、神様の足音を聞いてアダムとイヴは恐ろしくなり、木の間に隠(かく)れました。
神様がアダムを呼びます。
「どこにいるのか」。
するとアダムは
「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。私は裸ですから。」
神様は言われました。
「お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたのか。」
アダムは答えます。
「あなたが私と共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。」
神様はイヴに向かって言われました。
「なんということをしたのか。」
イヴは答えました。
「蛇がだましたので、食べてしまいました。」
神様は蛇に向かって言われました。
「このようなことをしたお前は
あらゆる家畜、あらゆる野獣の中で
呪われるものとなった。お前は、生涯這い回り、塵(ちり)を喰らう。
お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に
わたしは敵意を置く。彼はお前の頭(かしら)を砕き
お前は彼のかかとを砕く。」
これは、人間の心の中に罪が最初に入ったときのエピソードです。この罪故(ゆえ)に“人は死ぬもの”とされましたが、これも神様の計画の一部だったのです。
つまり、神様がエデンの園に蛇が侵入するのを見過ごされたのではなく、最初からそうなることを分かっておられたということです。では、分かっていながらに何故に蛇の侵入を許されたのか。それは、神様の深いご計画によっています。その計画に秘められた目的を一言で言うなら、「光を知るため」に他なりません。そして、その光を通して人類は神様の愛を知ることとなるのです。
どういうことかというと、光の中に光を置いても目立ちませんが、闇の中に光を置くことで光はより一層輝いて見えるということです。この際、闇が象徴するのは罪であり死です。対して、光は希望であり命です。
神様は、人類を創造された際、一人ひとりに“人格”を与えられました。そして与えた人格によって神格とコミュニケートすることを望まれました。
神様は万能ですから、何でも自身の言いなりにできる人類を創り出すことも可能でしたが、そうなさらなかったのは、一人ひとりが各々(おのおの)の自由意志で神様と交流をすることを望まれたからです。そのために、罪の化身である蛇がエデンの園で人に惑いを与える役割を果たしました。
よく人を“性善説”で捉えるべきか“性悪説”で捉えるべきか議論されることがありますが、聖書に照らして考えるなら「人は生まれながら善なるものであるが、罪に染まりやすい性質を帯びている」という“性罪説”で捉えるのが適当であろうと思います。
こうして人間は、神様を讃えるようにプログラミングされたロボットのような者としてではなく、自由意志によって神様を愛する者とされました。自由意志ですから、当然、神様を愛さない者もこの世には存在します。それでも神様は全ての人が自由意志によって神様を愛し、互いに愛し合うことを望んでおられます。しかし、そうはならないのが罪による現実なのです。
旧約聖書にも記(しる)されている通り、人類は幾度となく同じ罪を繰り返してきました。古代イスラエルは栄華を極めた時期もありましたが、幾度となく他国に攻め入れられ、紀元前6世紀にはバビロニアの首都バビロンに抑留されるバビロン捕囚の民となりました。それから約50年後、バビロニアを滅ぼしたペルシア王によって、ようやくイスラエルへの帰還を許されましたが、時代を経てローマ帝国の植民地となります。そんな闇に覆われた時代における神の御子・キリスト(救世主)の降誕は、まさに“光”以外の何ものでもありませんでした。とはいえ、その計画は極めて密かに行われました。何故なら、闇を支配する者に光は脅威以外の何ものでもなかったからです。
イスラエルのユダヤ民族にとって、かつてダビデ王とソロモン王が極めた栄華を取り戻すことは悲願でした。それ故、民衆は旧約聖書に預言されている救世主に、敵国を蹴散らし踏み付けにするスーパーヒーローを重ね合わせていましたが、神様のご計画は一国一民族をどうこうするといった次元のものではなく、人類を救済する実に壮大なご計画だったのです。しかし、当時の人々にはそのことに理解が及んではいませんでした。
人類を救済する壮大な計画。それは、“罪と死からの解放”です。
神様は、人類の祖アダムとイヴの“原罪の結果として、人を死ぬもの”とされましたが、三位一体(父・御子・聖霊)の御子を地上に送り、十字架の死と復活によって、御子を信じる者を罪の奴隷から贖い(御子の命を代価に身請けする)、永遠の命を付与する計画を完成されました。新約聖書ヨハネによる福音書3章16節には、次のように記(しる)されます。
16 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。
独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
このように神様は、ご自身の与えた命と魂が、神様を愛する形でご自身の許(もと)に還(かえ)って来ることを切に願っておられます。掛け替えのない魂の救済のためなら、ご自身の独り子をさえ犠牲に差し出すことを厭(いと)われませんでした。こうして神様の定めに従い、御子イエスは私たち一人ひとりの魂救済の使命を帯びて、人となり生まれたのです。他ならぬ私のために。そして、あなたのためにです。
御子イエスのこの召命(しようめい)に関する預言が、アダムとイヴの物語の終わりにも記(しる)されています。
神様は蛇に向かって言われました。
「…
お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に
わたしは敵意を置く。彼はお前の頭(かしら)を砕き
お前は彼のかかとを砕く。」
最後の文に登場する「彼」が“御子イエス”で、「お前の頭(かしら)を砕き」は“(御子イエスが復活して)死を滅ぼす”こと(=永遠の命)を意味し、「お前は彼のかかとを砕く」は“死の力が(十字架上の)神の御子イエスに及ぶ”ことを指し示します。
人間は弱く愚かな存在です。先述したように、今も尚、アフガニスタン、ウクライナ・ロシア、イスラエル・ガザ他で、互いにいがみ合い殺し合う罪を繰り返しています。
神様の望みはシンプルです。それは、神様を愛する者たちと永遠に愛し合いたいということです。ご褒美を与えるから、いうことをききなさいと交換条件で与えられるのが永遠の命ではありません。神様はわたしたちを愛し続けたいし、わたしたちに愛し続けて欲しいのです。これが、神様の真実です。神様は愛が支配する世を望んで、この世の全てを創造なさいました。
11 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。
12 あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。
(新約聖書:ルカによる福音書2章11~12節)
(※キリスト紀元(AD1年)がヨーロッパを中心に広く用いられるようになったのは6世紀以後ですが、その後の研究で紀元には4~7年ほどの食い違いのあることが分かっています。とはいえ、いろいろな事柄がキリスト紀元を元に記録されてきていたこともあり修正が難しかったのでしょうか、現在まで当時定められたままに西暦が用いられ続けています。)