ハロウィンは、もともとはイギリス・ケルト地方で収穫の時期を終えた10月31日を1年の終わりとして、新年を迎える前の厄払いのような感じで続けられていたお祭りです。悪霊を寄せ付けないよう、怖い恰好をして町内を練り歩いていたんだそうです。スピルバーグの映画「E.T.」の大ヒットによって、日本でもハロウィンのお祭りが広く知られるようになり、いつしか日本の季節行事の一つにも成っているようですね。
四半世紀ほど前、厚生省(現厚生労働省)から関係者に対して障害種別の名称に関するパブリックコメントが求められました。それは、それまで「精神薄弱児(者)」と呼んでいたものをどう改めたら良いかというものでした。
当時既に「精神薄弱」や「知恵遅れ」は侮(ぶ)蔑(べつ)語としての烙印を押されていて、巷(ちまた)では「精神遅滞」とか「発達遅滞」あるいは「発達に遅れのある子ども」が専門書や専門雑誌に踊っていました。ただし、法律用語としては「精神薄弱」が正式だったので、改正に向け国が広く国民に意見を求めたという訳です。
求めに応じ「啓発児」とか「啓蒙児」などユニークな意見が多数提出されましたが、最終的には当事者の意見として「知的障害」が採用され、非常に残念に思ったことを覚えています。
私も当時、応募しました。応募した名称は「発(はっ)達(たつ)緩(かん)進(しん)児(じ)」で、種別名称に「障害」という文字を入れたくなかったこと、名称が持つイメージをネガティブからポジティブに転じたかったことの双方を考慮した上で、子どもの状態をストレートに表現する語としてそのように命名しました。
手前味噌になりますが、“発達が緩(ゆる)やかに進む特徴を有する子”を表した「発達緩進児」は、我ながらなかなか良い名だなぁと今でも思います。
その当時の園長は、学園の子どもを紹介するときに、よく「発達に遅れのある普通の子」と表現していましたが、私のネーミングはそれを更にブラシュアップしたものと自負しています。
私たちはいったい何に対して「遅れ」とか「障害」と言っているのでしょう。「障害」という文字は、それを目にする者にさも「壊れている」かのような印象を抱かせます。しかし、光の子に日々接する私たちに、そうした印象は全くありません。そこには、“ただゆっくりだけど確実に成長する子どもの姿があるだけ”だからです。
かつて近江学園を開き「知的障礙の父」「社会福祉の父」と呼ばれた糸賀一雄(鳥取市出身のクリスチャンで私の実家のご近所)が、聖書を引用し「『この子らに世の光を』ではない。『この子らを世の光に』である。」と述べたように、光の子学園の子どもたちは一人ひとりが最高に輝いていて、関わる私たちを照らしてくれています。この恩恵に、私たち一部の者だけが浴していて良いものかとさえ思わされるほどです。
この世の価値観で見るときには、確かにできないことが多いのかもしれません。しかし、この子たちは存在するだけで、実に多くのものを私たちに与えてくれているのです。
近年アメリカを中心に、障礙者=DisabledをChallengedとかSpecial needsと呼び換える運動が起こっていますが、私は古くから使われているHandicapperや最近使われ始めたDAP(Differently Abled Person=異なる能力・可能性を持つ人)がお気に入りです。
もしも「発達緩進児」を英訳するなら、CSD(Child with Slowly Development)といった感じでしょうか…