ハロウィンは、もともとはイギリス・ケルト地方で収穫の時期を終えた10月31日を1年の終わりとして、新年を迎える前の厄払いのような感じで続けられていたお祭りです。悪霊を寄せ付けないよう、怖い恰好をして町内を練り歩いていたんだそうです。スピルバーグの映画「E.T.」の大ヒットによって、日本でもハロウィンのお祭りが広く知られるようになり、いつしか日本の季節行事の一つにも成っているようですね。
子どもの成長を測るものに知能検査と発達検査があります。知能検査と発達検査の違いは、知能検査は知的能力を測ることに特化しているのに対して、発達検査には身体機能を測る項目が加えられているのが特徴です。この他にも、社会生活能力検査というものもあります。
知能検査では知能指数IQ(Intelligence Quotient)を算出し、発達検査では発達指数DQ(Developmental Quotient)を算出します。ちなみに、社会生活能力検査で算出されるのはSQ(Social Quotient)で、これらは全て“心理検査(テスト)”と呼ばれます。根拠(エビデンス)に乏しい玩具(おもちや)のごとき“なんちゃって心理テスト”も巷(ちまた)には多く出回っていますが、ちゃんとした心理検査では、検査の設問一つ一つに“標準化”という作業が行われています。例えば描画「真似てグルグル描きをする」という発達課題を複数の保育所で実施し、75%~80%の通過率で子どもが達成できるのは何歳何ヶ月以上かを割り出すという作業です。この際、1,500~2,000人以上の子どもを被検対象とし、被検者数が多ければ多いほど標準化エビデンスの確かな検査として評価されます。ちなみに、「真似てグルグル描きをする」は、1才6ヶ月から1才9ヶ月の発達課題になります。また、「閉じた○を描く」は2才9ヶ月が平均的な獲得時期です。
さて、最初の知能検査は、フランス文部大臣の委嘱を受けて1905年にソルボンヌ大学の心理学教授アルフレッド・ビネーらが開発しました。当時の知能検査開発の目的は、小学校に在籍している知的障礙児を抽出することにありました。いわゆる、スクリーニング(振るい分け)テストと呼ばれた由縁です。つまり、標準に達しない(学習単元の進度を滞らせる)児童を排除することが目的で、背景には教育熱心な保護者達からの強い要望があったと言われています。今から115年以上前の話です。
しかしながら、知能検査が“知的能力”を測るテストであるとするなら、『標準からどれほど劣っているか』を算出し排除に用いることを目的としていたのでは「看板に偽りありではないか!」と、その後1世紀に渡り、知能検査は文字通り“知的能力を測る”テストとしての進化を遂げてきました。主だったものに、田中ビネー式知能検査<幼児~児童・生徒版>、ウェクスラー(D.Wechsle/米)開発のウィプシ<WPPSI:幼児版>ウィスク<WISC:児童・生徒版>ウェイス<WAIS:成人版>、新版K式発達検査<乳児~児童・生徒版>、この他にも津守式乳幼児精神発達診断法、遠城寺式乳幼児分析的発達検査法等があり、それぞれ時代に合わせてバージョンを更新しています。
私は、これらのテストによって算出されるIQやDQをどう捉え、どう理解するかを考える際に、自動車に喩(たと)えると解りやすいのではないかと考えています。
例えば、時速100km/hで走行する能力を有している自動車<赤>があるとします。つまり、ノンストップで1時間後に100km先の町(糸島)に到達できるエンジンを搭載した車です。これが標準(平均的水準)、つまりIQ(DQ)=100の力だと考えてください。これに対してIQ(DQ)=70の車<青>は、ノンストップで1時間後に70km先の町(博多)に到達できる時速70km/hで走るエンジンを搭載した車。IQ(DQ)=50の車<黄>は、ノンストップで1時間後に50km先の町(宗像)に到達できる時速50km/hで走るエンジンを搭載した車だと考えます。
ここで大切なのはIQ=70や50の車が100km先の糸島に到達できないわけではないということです。既にお分かりのように、70の車は26分後に、50の車は1時間後にそれぞれ糸島に到達することができるからです。これが、知能検査や発達検査が測ろうとしている力で、学習・吸収する力をこのように速度とその力を生み出すエンジンに置き換えて考えると、IQ(DQ)が何を表しているかをお分かりいただけるのではないかと思います。つまり、何を獲得してきたかの「過去の力」を量るものではなく、それらによってこれからの「未来の力」を測ろうとしているのがIQ(DQ)なのです。
ところで、車が走るためにはエネルギー(燃料)が必要です。それは子どもも同じ。子どもが成長・発達のために必要とするエネルギーには、まず、食物や飲物から摂取する物理的な栄養が挙げられますが、等しく、家族を含む周囲の大人たちからの共感や承認、笑顔や励まし等、精神的・心の栄養も不可欠です。成長に伴い思春期に近づくにつれ、次第に同年代・同世代からの共感や承認の比重が増すことになりますが、いずれにせよ、これらによって子どもの持つポテンシャル(潜在力)が最大限に引き出されていきます。こうした善い療育(養育・教育)の循環の中で過ごす時に、子どもは少しずつ自身のエンジンを、より排気量が大きく、より出力の高いものへとチューンナップし、バージョンアップしていけるようになるのです。
前職、児童心理治療施設・児童家庭支援センター(他県)でセンター長を務めていた時に、幼児期に児童発達支援センターに在籍していた中学2年生の男児に出会いました。
児童発達支援センター入園時のその子のIQは30台後半<知的障礙・中度>でしたが、小学校入学(特別支援学級)時点では70台後半<知的境界域>、小学校卒業時には80台後半<知的通常域-平均の下->、そして出会った直後に実施した検査(wisc-Ⅳ)ではIQ=100<知的通常域-平均->を計測しました。
この男の子は、じっくり時間を掛けながら自身の発達のエンジンをチューンナップし、バージョンアップしてきた訳ですが、理解力が増すにつれ、自身と周囲との違いがはっきりと分かるようになって、返ってそのことに傷付きを覚え、家庭に引きこもっていました。引きこもりから1年ほどして児童家庭支援センターの外来に繋がり、児童心理治療施設のデイケアに通い始めました。中3は殆ど休みなく通所し、高校進学を目前にして「僕は人と違ってコミュニケーションが苦手なので、特別支援学校高等部の就労コースに進学して、将来はコンビニでアルバイトをしたいと思います」と、理路整然と意志を表明し驚かされたことがありました。現在、この男の子は高等部の3年生になっています。
この男の子のように、これほどにIQが劇的に変化・成長する子ばかりではありませんが、やはりIQの数値だけがメジャー(物差し)ではないことを思わされます。
その子自身にとっての「幸せ」とは何か、当人を交え保護者・支援者が一緒に考えていく姿勢が大切なのだと考えさせられます。